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つくりたくてつくったものが
海外へも広がっていく

上原 先ほどお話に出た「セクサロイド」や僕が大好きな「宇宙海賊キャプテンハーロック」よりもずいぶん前に、先生は漫画を描き始めていますよね。

松本 漫画はね、高校1年から雑誌に載って、毎日小学生新聞に昆虫漫画なんかも描いていたんです。当時は、そうやって稼いだお金を学費にしていたんですよ。当時、1ページ350円ぐらいで、1、2カ月も連載すれば学費に充てることができたから。そのあと、18歳で高校を卒業して上京したの。上京してからは、少女漫画が入り口ですね。

上原 少女漫画も長い期間、描かれていたのですか?

松本 あの時代は、みんな少女漫画が入り口だったんですよ。少年漫画には重鎮たちがいて、入る余地がなかった。私だけでなく、石ノ森章太郎もちばてつやも赤塚不二夫も全員、そうですよ。藤子不二雄もね。

上原 そうそうたる漫画家の方たちが少女漫画を描いていたなんて。

松本 ただ、そのあと、漫画家の世界に女性たちが登場してくるんですよ。池田理代子さん、里中満智子さん、それからうちの女房、牧美也子もそうですけれど、女性が少女漫画を描くようになっていった時期でね。いろんな人が出てきたら、男は全部、仕事がなくなりましたよ(苦笑)。

上原 そうなんですか?

松本 だって勝てませんよね、絶対に。そもそも生理的に違うし、こちらは想像で描いているけれど洋服の下に本当はどんな下着をどんなふうつけているのかなんてわからないんですから(笑)。そんなときにやっと少年漫画から依頼が来て、描いたのが「光速エスパー」です。それから「電光オズマ」。だんだんそうやって依頼が増えてきて、青年誌にも描くようになったんです。

上原 そして描いた作品がどんどん外国語に翻訳されて、いろいろな国から今でも映画化のオファーが来る……すごいですね。

松本 僕の作品は、ほとんど全部、英語版が出ているんじゃないかな? 他にはフランス語、ドイツ語、中国語、韓国語……。世界中にウロウロしていますね(笑)。

上原 最初から、海外を意識していたわけではないですよね?

松本 僕の作品は、翻訳のときに困らないようですね。文字が横に組まれても大丈夫なように最初から描いているから。最近の若い漫画家たちはセリフを縦書きにするから、翻訳のときに困るようですよ。

上原 つくりたくてつくったものが結果的に海外にも広がっていくというのは、いいですね。

松本 自分の体験や記憶に導かれて、それに突き動かされるように創作活動を行ってきて、自分の伝えたいことを主人公のセリフとして使っていったんです。それが日本だけでなく海外の方にも評価されているというのは、うれしいことですね。

第2回へ続く

 

プロフィール

左)松本零士 REIJI  MATUMOTO

漫画家、アニメーション作家。1938年福岡県久留米市生まれ。小学生のころから絵を描き始め、1954年15歳のとき「蜜蜂の冒険」でデビューし、同作品は漫画少年第1回新人王を受賞。1957年、福岡県立小倉南高校卒。高校卒業後、レコード・蓄音機などを質屋で処分して旅費をつくり上京。東京都文京区本郷の四畳半の下宿で本格的に漫画家活動に入る。1960年、少年誌に「ララミー牧場」を連載。1972年「男おいどん」で講談社出版文化賞児童まんが部門賞を受賞し、一躍有名になる。1978年「銀河鉄道999」で小学館漫画賞、日本漫画家協会賞特別賞を受賞。のちアニメーション制作も手がけ、「宇宙戦艦ヤマト」「宇宙海賊キャプテンハーロック」はブームを巻き起こす。1994~1997年に隔月刊誌『少年王』に「火聖旅団ダナサイト999.9」を連載、1997年にビデオでのアニメ化が決まる。1998年「銀河鉄道」が17年ぶりに映画化された。同年4月からインターネット上の『web新潮』で連載、1999年アニメビデオ化される。ゲームソフト「コスモウォーリアー零(ゼロ)」の制作に携わり、2001年にテレビアニメシリーズとなる。
1995年、かかみがはら航空宇宙科学博物館名誉館長に就任。1998年に大阪府特別顧問、のち大阪府立大型児童館ビッグバン館長を兼務。2000年には漫画やアニメーションのデジタル化に伴う知的所有権保護のルールづくりのため、デジタル漫画・アニメーション協会設立準備委員会を結成。他の作品に「1000年女王」「アレイの鏡」など多数。2001年紫綬褒章受章、2010年旭日小綬章受章。

右)上原健一 KENICHI UEHARA

Rougyオーナースタイリスト。鹿児島県出身。高校卒業後、山野美容専門学校に進学。専門学校卒業後、都内2店舗を経てHEARTSに入社。HEARTSの店長を務めた後、2001年Doubleオープン時に店長就任。2011年に独立し、南青山にRougyをオープン。 2006年には第17回JHA(ジャパン・ヘアドレッシング・アワーズ)でグランプリ受賞。サロンワークをはじめ、一般誌・業界誌、セミナー等でも独自の世界観を展開し活躍している。

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