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日本刀
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武器としての二振り

2020.03.31

ゴトリ。
目の前の机の上に二振りの刀が重そうな音を立てて横たえた。
「家に刀があるから見てみないか」。そう言われて赴いた友人の家で対面したのは、白鞘に包まれたままの飾り気のない二振り。
私と同世代で刀を購入する人は稀だが、「祖父が買った刀が実家にあって〜」なんていう話はたまに聞く。たまに聞くけれど、実際に個人の家でお目にかかったのは初めてのことで少しびっくりした。

 

このひそやかな刀の鑑賞会で、まず初めに印象的だったのは刀が置かれた時の音だった。
美術館や神社などで刀を鑑賞する機会はあっても直接手に取ることは少ない。そのほとんどはガラス越しに、あるいは柵越しにその姿を眺めるだけだ。刀は静寂の中に凛然と輝き、音をたてることはなく、まるで重さなんてないような不思議な存在に思えてくる。ふだん映画や舞台ですいすいと振り回される模造刀の様子を見ていることも相まって、実際に手にしたことのないものをどこか二次元的に捉えているのかもしれない。
そんな感覚でいたからこそ、あのにぶい音が耳に残った。あの音は私が初めて感じた刀の重みだ。

実際に持ってみると、すらりとした見た目とは裏腹に地面に吸い寄せられるようにずっしりとしている。この予想をこえた重みに触れた瞬間、刀を怖いと感じる人も多い。
持っている人間が力を入れずとも自重とその鋭利な刃で何でもさくりと切れてしまいそうな危うさがあるからだろう。こういった近寄りがたい恐ろしさも刀剣の美しさの一つだ。

その日、もう一つ印象に残ったことがある。持ち主がふとした瞬間にぽそりとこぼした言葉だ。
「刀って血を浴びたいものなんですかね?」
本人は何の気なしに尋ねたであろうその一言にうまく答えを返すことが出来なかった。そして私はその言葉を聞いたときになんというか、分かっていたのだけれど、改めて刀を武器として意識した。
確かに、刀は刃物であり戦闘において人を斬るものだ。刀の定義として一番に浮かぶのはそういうものだし、権力の象徴や美術品としてのイメージが先行する人のほうが少ないだろう。
しかし、実は刀が武器として戦いの主力だったのはわずかな期間だったとされる。戦乱が頻発した戦国時代では刀よりも弓矢が重宝され、のちに鉄砲が加わると、日本刀での斬り合いは相手と接近戦にまでもつれ込んだ時の最終手段となった。そうして活躍の場が少なくなっていった日本刀だが、芸術にまで昇華されたその美しさは多くの人々を魅了し、美術品や奉納刀としての形で今日まで愛され続けている。
けれども日本刀の本質はあくまでも武器だと考えたなら、その本懐は何なのか。武士が主君へに忠誠のため死を恐れず戦場を駆けることを誇りとしたように、刀がもともと戦いのために作られた刃物だとしたら、その矜持は敵を斬りより多くの鮮血を己が刃に浴びることなのかもしれない。 

 

それから少し経って、大阪城に刀を見に行った。ガラス越しに見た姿はすらりと美しく、相変わらず重さを感じさせない輝きを放っていた。まさに芸術品だ。しかしそれだけではないのだと、ふとあの一言が蘇る。もし目の前のこの美しい刃に指が触れたら?そこにつたう自分の血を想像してぞわりと姿勢を正す。そして刀の物々しい重みを思い出す。右手を柄に、左手は鞘にそえ、ゆっくりと刀身を抜ききったときにぐらりと鋒が落ちるあの鋼の重みだ。たとえ美術品として鍛えられたものだとしても、刀とは恐ろしさをはらんだ武器なのだ。

戦場を駆けた刀、美術品として一度も戦いで振るわれることのなかった刀、日用具として使われた刀。刀の生はさまざまあるが、それぞれの刀としての本懐はいったい何だったのだろうか。今は友人宅にひっそりとしまわれ、人を斬ったこともないであろうあの無垢な二振りの本懐とはいったい。友人の何気ない一言を思い出すたびにそんなことを考える。そのたびにゴトリ、とあの二振りの音が耳の奥で聞こえるのだ。

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