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宝塚
25

小池修一郎 関所の番を押しのけて

2022.04.19

 そもそも、私が宝塚歌劇団というファンビジネスの極致みたいな界隈で、生徒(出演者)よりも作品と作家に傾注するようになったのにはいくつかきっかけがある。
 1つは、柴田侑弘さんの回の中、写真で紹介したもので、雑誌『宝塚歌劇ワンダーランド』(ぴあ社刊)。宝塚歌劇の上演作品のあらすじ、出演者情報から原作・原典の案内までが見開きにまとめられたムックで、写真資料さえ残っていれば戦前の作品も索引できるものだった。
 テレビのデジタル放送やインターネット配信が当たり前になった現代の宝塚ファンには、この「上演データが索引できるだけの紙媒体」に魅力を感じる人はいないだろう。また、そういった放送・配信がない時代でも、首都圏や近畿圏にお住まいだったファンにとっては「ただの記念コレクション的なムック」に過ぎなかったのかもしれない。
 だが、1996年の晩秋にNHKによる舞台中継を通して、遠い福岡の地で宝塚歌劇に出会った小学生にとっては、その“紙切れ“に載っている情報は砂漠のオアシスのようなものだった。当時はまだ、博多座もない。都会で興行されている眩いばかりのエンターテインメントは、物理的な距離以上に遠く感じられたものだった。

 お金もなければすべもない。その当時の私の「推し活」は慎ましいものだった。まず、その『宝塚歌劇ワンダーランド』を隅から隅まで読む。NHKで放送され観たことのある作品も数点あったが、それ以外は観たこともなかった。

 その中でもっとも鮮烈に印象に残ったページがあった。その理由が写真なのかストーリーなのかは、もう覚えていない。だが、その題名、主人公の男の名を強烈に覚え、大人になったら早く原作を読みたいと思った作品があったのだ。

 『華麗なるギャツビー』(1991年 雪組宝塚大劇場公演/主演 杜けあき・鮎ゆうき)。
スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』を世界ではじめてミュージカル化したものだった。今、宝塚歌劇団の座付作家でありながら、宝塚歌劇以外のミュージカル作品も多数手がけるヒットメーカー・小池修一郎さんの初期の作品であった。

 小池修一郎さんは1977年入団。下積みは長かったらしく、デビュー作は1986年『ヴァレンチノ~愛の彷徨~』(雪組バウホール公演/主演 杜けあき・美月亜優)。その後1989年に『天使の微笑・悪魔の涙』(月組/主演 剣幸・こだま愛)で大劇場公演の演出家デビューを果たす。これはゲーテの詩劇『ファウスト』第1部をモチーフに翻案したもので、今回の本筋とは別に、大変おもしろいので個人的にぜひおすすめしたい一作である。続く宝塚大劇場公演担当作『PUCK』(1992年 月組/主演 涼風真世・麻乃佳世)もシェイクスピア後期の戯曲『真夏の世の夢』を大胆にアレンジしたもので、古典の名作を巧みに“宝塚ナイズド”する実力派作家として実績を積み重ねていった。
 これらの共通点に、剣さん、杜さん、涼風さんという、歌唱力とその歌で自在に心情を表現することに秀でたスターたちを生み出し、そのキャリアを築いていった側面がある。彼女たちは今も、小池さんが東宝制作でミュージカル演出を担当するとき、重要な役どころとして20年以上その作品を支え続けている。

 だが、私はそんな“耳の良い”彼に「静止画と文字」で出会った。
 後から種明かしをするが、多分ここがすでに、すれ違いから始まる出会いだった。

 作品としてのファーストタッチは、NHKの放送だった。『アポロンの迷宮』(1990年 星組宝塚大劇場公演/主演 日向薫・毬藻えり)。実際に見たのは公演から5年くらい経った頃と思う。私は10歳で、まだ誰のファンでも、当然作家のファンなんかでもない。当時宝塚随一の長身を誇った華やかなスター・日向薫さんと、まさに花も恥じらうような美しさの毬藻えりさんに見とれているだけだった。美貌の2番手スター・紫苑ゆうさんが優雅な紳士かと思いきやとんでもない悪役という筋書きで、ディズニーのように明瞭な筋とジブリアニメのような含みのある美しさ、それでいて『ルパン三世』シリーズのような痛快なスピード感のどれもがバランスよく味わえる作品で、私は「特に何も引っかからずに」エンジョイして終わった。
 10歳の私は、当然「小池修一郎という人がつくったのか~」なんて、思いもしていない。だから私は、まだ彼には出会っていないということになる。

 最初の出会いが「静止画と文字」。
 2度目に出会ったのは……
『エリザベート』(1996年 星組宝塚大劇場公演/主演 麻路さき・白城あやか)。
 劇場での公演から1~2年経った頃に、麻路さんのファンだった母がVHSを買ってくれたのだったと思う。初演の1996年雪組宝塚大劇場公演、一路真輝さんと花總まりさんによる初演版が大変好評だったことは、今のように宝塚の専門チャンネルなど情報がないながら、機関誌や数少ない新聞・雑誌の情報で仕入れていた。
 私はそれが観られるのをとても楽しみにしていた。学校の音楽の授業で『サウンドオブミュージック』を観たり、ディズニーミュージカルの『美女と野獣』『ライオンキング』などを知った頃だったので、ミュージカルにはとても興味があったからだ。確か、テレビで放送されたミュージカル映画『ウエストサイド物語』を、録画してもらって観た後だったと思う。一方、ミュージカルだけではなく、『風と共に去りぬ』だとか『ひまわり』とか、『カサブランカ』とか。今考えれば「12~13歳に何見せてるんだ」って感じだが、母と宝塚を一緒に観るようになったことで、洋画を中心に少し背伸びして、たくさんの映画を観せてもらっていた時期だった。

 で、『エリザベート』。
 まずはそのうねるような音のエネルギーに圧倒されたのは今でも鮮明に覚えている。重厚なコーラス、旋律そのものが心情を表現するオーケストレーション。ミュージカルを知っているつもりで、しかも映像なのに「はじめての体験だ」と思った。
 思ったが……
 ところどころ、気になる。セリフや前後の状況描写まですべてが歌に託して省略されるので、特に主人公であるオーストリア皇后・エリザベートの心情にまったく追いつけない。
「なぜ今死のうとするの?」「逆に今怒るところでは?」
 そしてクライマックスで思う。
「シシィ(エリザベートの俗称)、こんな描かれ方でいいの? なんのために死んだの――?」
 似ている感情を知っていた。ちょうど自分も吹奏楽を始めた頃だったのだが、誰かが音を外して合奏が止まる。私のせいで止まるときも当然あった。もう一度吹く。むずかしくてできない。それなのに、そこが無視されて進むときと同じ。
 主人公に「おいて行かれた」と感じた作品に出会った、はじめての経験。 
 それが、小池さんとの2度目の出会いだった。

 悪口ととられるのは本意ではないので即座に回収するが、そもそもこの「おいて行かれた」感覚は小池さん本人のせいではない。
 その理由は2つあって、1つは、私が楽譜とともに物語を理解するタイプの作品鑑賞に慣れていなかったことがある。『エリザベート』などは乱暴に説明するとオペラ的で、プロットや会話もどんどん歌で進んでいく。それまで知っていた数少ないミュージカルは子どももわかるような「セリフ+歌」の構成だったので、単についていけなかったと振り返っている。
 2つめは、主人公のことを「そんな描き方」をしているのは、そもそも原作者のミヒャエル・クンツェ&シルヴェスター・リーヴァイだからだ。確かに、宝塚で当作を上演するにあたり、いくつかの改変が行われてはいる。最大の改変としては、『ベルばら』ブーム以降、男役トップスター中心主義が屋台骨になった宝塚では皇后が主役の物語として展開することができず、原作の主人公であるエリザベートを誘惑する“死”を擬人化した存在が主役になっている。それ以外にも、皇帝・皇后夫妻にとって最初の大きな心の傷であるはずの長女ゾフィーの死が省略されたり、皇帝と皇后の確執を決定づける事件が「すみれコード(性的な表現ほか、生々しい描写を避ける不文律)」によって子どももしらけるようなファンタジー描写ですまされたりしている。が、問題はそこではない。
 どんなに不自由を嫌い、文学などを通して死に惹かれていたことが事実だろうと、実際の彼女はテロリストの手によって命を絶たれたのである。それを、襲われることを受け入れるような描写があることに
「あんた(シシィ)、こんな描かれ方してるけどいいの?」
と、子ども心に大変気持ち悪く感じたのだった。もしかして、事件の供述や歴史的解釈にもそうあるのかもしれない。だが、それでも私は同じ人間として「死人に口なし」とはこのことだと思った。
 なので、持ってきた小池さんにというより、原作に対する不愉快だと、二十余年経った今判明したが。
 創作や文学で“死”を考えたという主人公シシィ。それは、逆に生への執着のように私は思うのだが。もし、本当にそれゆえに彼女がテロリストの刃を受けることを受け入れたのであれば、その思想はどこに?

 この2度目の出会いは、読んでいただければわかるように、まったく良い出会いではなかった。だが、これが冒頭に述べた「生徒(出演者)よりも作品と作家に傾注するようになった」最大のきっかけである。この出会いで心に残った大きなしこりは、これまで10人の作家について述べてきた“推す理由”の体幹となっていったのだ。
 1つは、生と死を必死で描くのを愛すること。谷先生の「死ぬほど、生き倒す」で強くつづった思いなんかは、この反動である。2つ目は、確かに生きた人を描くときの分別みたいなもの。死んだ人に感情があるかどうかなんて死んだことがないからわからないけれど、主役として書くにしたって悪役に置くにしたって、死んだ本人の魂が「そうそう、そうなのよ」って思っていそうな作品が好きだ。これは、大野さんとか生田さん、あとは齋藤吉正さんとかがそのタイプだと思う。

 小池さんが海外から仕入れてきた、むせかえるような知らない国の音、におい、思想、仰天するような死生観。
 それを取り込んで咳込んだとき、本当の自分がクリアになったのだった。
 良い感情って、当たり前になるとだんだん忘れていってしまう。が、私は初観劇から24年も経つ今、エリザベートが幸せそうに“死”によりそって昇天していくシーンの「は?」と、それと同じくらい強烈な音が耳を貫いて脳を突き刺してくる気持ちよさの矛盾を忘れることができない。

小池さんに出会い、単なる拒絶でもなく共感でもない複雑な感情を知らなければ、チラシに小さく書き添えられた「脚本・演出」の文字に注目することはなかった。

 さらに1つ、少しだけクリアになったこともある。
 それは冒頭の最初の出会い『華麗なるギャツビー』にさかのぼる。
 確かまだ小学生の頃、卒業する間近だった。近所の図書館だったか学校の図書館だったかに、原作の『グレート・ギャツビー』を見つけたのだ。うれしくなって、むずかしいけれども、貸出期間を延長しながら読了。

 ……。
 なんか、思ってたんと違う。ギャツビーって、こんな男なの……?
「大人の恋愛の話だからな~」なんて思いながら、とりあえず読了したことがうれしくて返却した。
 そして、大学3回生。当時ファンだった男役スター・瀬奈じゅんさんが同公演を再演するとなり、その子どもの頃の「思ってたんと違う」事件を思い出したのだった。
 「もう一回読んでみるか……」
 再び出会ったその物語の主人公・ギャツビーと、彼が執拗に思いを寄せ続けるデイジーは、幼い頃の記憶のまま「思ってたんと違う」不格好な奴らだった。
 ムック『宝塚歌劇ワンダーランド』で見た杜さんのギャツビーは非の打ちどころのない紳士に見え、鮎さんは誰もが恋する魅力的な女に見えた。が、私が図書館で会ったギャツビーは、傷つくのを恐れるがあまり思い出を美化して他人に執着する男だったのだ。
 そんな20代になって再会したギャツビーを、私はおもしろい奴だと思った。常に分厚いインソールを靴に仕込んで歩いているような男。
 さらに、ギャツビーが叶わぬ初恋のミューズとして追い続けたデイジーは、20代になって読んでみると「この女、意外と美少女でもなんでもなかったのかもしれないな」と思いすらした。今風にいうと“オタサーの姫”じゃないけれど、この女自身少女のころからずっと満たされないものがあって、「ギャツビーに執着されていることに執着している」ように思えた。
 ひとときの懐かしい心の潤いを楽しみ、そして、したたかにギャツビーを見捨てて夫と子どものもとに戻っていく女。大人になって、デイジーって子どものころ夢見てたようなお姫様ではなさそうだけれど、最高におもしろい女じゃんと何倍もの好感をもって読了した。

 小池さんのこの作品の人物読解に関して、本意はわからない。もしかしたらギャツビーの野心や執着に男の美学を感じてしまったり、デイジーのつくられた憐れな純真さも本当に信じたりしているのかもしれない。そうすると、彼自身がギャツビーなんだなぁ、だから彼が描いた杜さんのギャツビーを切り取ったあの写真は、あんなに朗々と凛々しかったのかしら――。

 まあ、どっちだっていい。
 本当は男女の愚かさとそれゆえの愛らしさを見抜いていたとして、ああやってファンタジーに満ちた徹底したギャツビー目線の陽炎のような世界を描けるのはすごいことだ。ギャツビーとデイジーのことを「おもしれー男(女)」と一度思ってしまった私には、恥ずかしくってとてもできない描き方だと思う。

 この連載の初回で、私は宝塚のことを「文学の扉=入門」だと言ったけれど。
 小池さんは私にとって、その扉の存在を意識させた門番だ。しかも、同じ世界でも自分が見るのとはまったく違う見え方で世界を描く、まるで外国人。
「通して」と、話しかけてみるけれどまったく通じない。

 でも、私は大学最後の年に「翻案」を研究テーマに掲げることにしたのだが、それはこの「まったく通じない」経験が1つのきっかけだ。
 だって、同じものを見て、しかもお互いに一定以上の読む力があるはずなのに、こんなに違うなんておもしろすぎるとは思わないか!
 共感したり、共鳴したりする作家の作品は居心地がよくて勇気が湧いてくるし楽しいけれど、こんなにわかり合えない人からしかえられない楽しさって格別だ。まるであの手この手で話をしようとする知らない地域の街角のような。
 彼の作品に出会い、通り過ぎるたびに心の中で生まれる大きな化学反応を、実はかなり楽しみにしている。宝塚以外の世界の観客からずいぶん評価をされているけれど、本当に彼の作品を楽しんでいるのは「私だけ」だと、ひそかに思いぞするほどに。

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