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宝塚
289

正塚晴彦 解決しない救済

2021.12.24


宝塚歌劇団の座付作家を“推す“と銘打ってスペースをいただいている当連載だが、9人も10人も紹介していると、正直申し上げてどこを好きなのかわからない人もいる。
というか、間違いなくこの人に心動かされた経験があるのだが、世の中が賞賛しているような脚本の妙だとか演出手腕だとかを特筆したいとは思わず、筆が止まってしまうのだ。
それが、今回紹介する正塚晴彦さんだ。
むしろ作風としては好みではないのだが、このひと。さてどう書こう――。

そう思っているとき、あるお笑いコンビの単独ライブを観た。コントを中心に活動するスクールゾーンの単独ライブ『風めいて、春』。橋本稜さん演じる少し風変わりな少年・山中風太の少年時代から青年時代にかけての日常生活を描くもので、相方の俵山峻さんが山中の周りの人を演じ分け、コントをオムニバス形式で紡ぐ舞台であった。少し変わり者であるために起こるコミュニケーションのズレと、それに伴う本人と周りの人のおかしみをあたたかく描いたものので、個人的には「山中はチャップリンの演じた小さな放浪者のようだ」と好感を持った。
が、鑑賞後に感想を辿っていると、ある批判が目にとまった。「主人公の少年は生きづらさを抱えている人であり、笑えない。結びとなるコントでの一人傷心の部屋にデリヘルを呼ぶ設定も、そのような主人公の特性から考えて無理があり、救済がなく乱暴だ」というものであった。
この感想に関しては、主人公の山中を「生きづらさを抱えた人」という以上に、特定の障害を抱えていると決めつけた上での主張だったので、障害を持った人(だとして)に対する偏見に満ちている時点でそもそも問題があるのだが、それ以前に私が気になったのは「救済がない」ことに対する強い反発心だった。
ああなるほど、今の観客は物語の結びに解決や救済で「スカッとすること」を求めている――。
そのとき、正塚さんのことを思い出したのだった。彼の好きな作品を観ているときはただ立ち止まって登場人物に寄り添い、幕が下りると同時にまた時計の針が動き出すような気持ちで歩き出すことを。

 

 正塚晴彦さんは1976年宝塚歌劇団入団。1981年に『暁のロンバルディア』(星組宝塚バウホール公演/主演 峰さを理)でデビュー。古代や中世の作品も数多い宝塚の中では、1900年代以降の近現代を舞台にした作品を多く手掛け、主人公カップルの恋模様を描くロマンスラインよりも、何かしらの事件を解決していく方が主題になることが多く、その作風は【ハードボイルド】と称されるのをよく目にする。

一方で非常に器用な人で、手塚治虫の漫画を原作とした『ブラック・ジャック 危険な賭け』(1994年 花組宝塚大劇場公演/主演 安寿ミラ・森奈みはる)なども好評を博したし、『メランコリック・ジゴロ』(1993年 花組宝塚大劇場公演/主演 安寿ミラ・森奈みはる初演)などは今なお再演される小粋なコメディ作品だった。
私が初めて彼の作品を観たのは『二人だけが悪 ―男には秘密があった そして女には…―』(1996年 星組宝塚大劇場公演/主演 麻路さき・白城あやか)。その後『バロンの末裔』(1996年 月組宝塚大劇場公演/主演 久世星佳・風花舞)や『Love Insurance』(2000年 星組 梅田芸術劇場シアタードラマシティ公演/主演 稔幸・星奈優里)などを映像で観た。
それは『二人だけが…』以外は面白く構築された話であったが、長らくピンとこないままだった。主人公たちが抱える解決すべき問題(アクションライン)は宝塚歌劇の作品の中では比較的リアルで練られたもので、謎を解いていくようなミステリ的展開もある。
確かに面白い。面白いんだけど……。面白いミステリは他にもあるし――
中学を卒業する頃、高校生くらいにはだんだんそんなふうに思うようになっていた。
それが、私の正塚作品に対するファーストインプレッションである。

また、上記のような設定の問題から、複雑かつリアルな会話劇であることも正塚さんの作風のひとつである。リアルな会話といっても、あくまでも「宝塚にしては」とか「演劇にしては」といった枕詞がつく。たとえるなら、1970年代のテレビドラマにおける向田邦子作品のような感じ。「その中においては自然に聞こえる」というくらいのものである。具体的な違いとしては、徹底して戯曲的な説明セリフや内言を排除しており、内言が必要であればナレーションを利用するのが彼の演出の特徴だ。
もちろんそこにこだわるだけあって、彼の書く会話劇は面白いとは思う。実際彼を支持する宝塚ファンの多くは、その会話の粋や、その延長で紡がれる主題歌の歌詞を賞賛する人が多い。
これに関しても、私は「自然な会話劇が聞きたいんだったら他のストレートプレイを観ればいいのに」と思っていたし、今も半分くらいそう思っている。

そんなふうに、少し正塚さんの作品とそれに寄せられる賞賛に抵抗を持って向かっていた私にとって、別の方向から風が吹いたように感じたのは2004年に観劇した『La Esperanza ―いつか叶う―』(花組宝塚大劇場公演/主演 春野寿美礼・ふづき美世)だった。
この作品は、自分の不始末によりパートナーに怪我を負わせてしまったタンゴダンサーのカルロス(春野)と、パトロンと対立し画家になる夢を絶たれてしまったミルバ(ふづき)が出会い、2人を中心とした仲間や支えてくれる人と心を通わせあっていくストーリーである。
これも、2004年に大劇場で初めて観劇した際には「正塚さんの割には何も起こらない話だったな」と思っただけだった。
それが、数年経って…… おそらく2006年くらい、大学に無事入学した後だったと思う。そのタイミングで映像を見返したとき、全く違った鮮やかに心うつ作品に見えると気づいた。
考えられる見え方の変化の原因は、即座にわかった。私自身が宝塚音楽学校の受験に失敗しことだ。この作品にはカルロスとミルバ以外にも「思うようにいかない人」が大勢出てくる。その人たちが出会って、心を通わせつつ、それでいて何かが起こってどんでん返しのハッピーエンド!となる話ではない。タイトルにスペイン語で「希望」と冠していながら、誰の夢も叶わない。
ただ、序章で絶望の淵にいた主人公たちが「こけたままでもいられないから、歩き出すか」と言って寄り添いあったり、自立したりしていくだけの物語だった。
当時の私には、物語の中だとしても「夢は必ず叶う!」とか、押し付けがましい大団円を見せられず、カルロスやミルバが「よっこいしょ」と腰を上げただけだったことに救われた気がした。
幕が下りるとき、二人がこちらを振り返って待ってくれているような気すらした。正塚さんの作品の会話劇がリアルであることの意味も、このとき初めて痛感した。
「解決」や「救済」がないことが、人を救う物語だってある。

 

では、その“正塚リアリズム“は、単に特定の観客の琴線を震わすためだけのギミックなのだろうか?
その答えはもちろんNoだ。彼が立ち止まって待っているのは、私たち観客ではない。
それを実感したのが、若手を中心に公演される宝塚歌劇団所有の小劇場・宝塚バウホールで興行した『デビュタント』(2018年星組宝塚バウホール公演/主演 瀬央ゆりあ)だった。
デビュタントとは、初心者、ビギナーを指すフランス語。この作品は、欧米の社交界で貴族の子息や令嬢がお披露目される「デビュタントボール」を題材のひとつにした作品だった。主人公のイヴ(瀬央)は貴族の生まれだが次男で、家を継ぐ義務はない。貴族たちの便利屋のようなことをして生活している男だ。そんなとき、パトロンである女貴族が自分の主催する舞踏会で、さる令嬢のエスコート役を頼まれてほしいと依頼してくる。箱入りで世間知らずの令嬢をうまくエスコートできず粗相を働いてしまうイヴ。その裏で、舞踏会のために借りていた宝飾品が盗まれる事件が起こる。この事件を解決すれば粗相はチャラにしてやると、難題を押し付けられるイヴの元に、今度はその“粗相“の元凶である令嬢が家出をしてきて――。
と、いう解決すべきアクションラインが盛りだくさんな、先述でいうところの「私好みではない」正塚作品の代表格ともいえる形式のストーリーだった。
若手中心の座組みが公演するバウホール公演だけあって、イヴを取り巻く登場人物はバリエーション豊か。イヴの一番の友人とそのフィアンセがいつもそばにいる。さらに、その友人の妹・ナタリーはイヴに想いを寄せている。家出令嬢ミレーユは「あなた(イヴ)に導かれて」家出をしてきたという。ここの三角関係がロマンスラインか〜、ハリウ●ド映画とかでありそうな話……と思いながら観ていたが、その結末は大味のハリ●ッド映画とはとても違う、柔らかくあたたかなものだった。
宝飾品の盗難事件というアクションラインは、拍子抜けするくらいあっさりと解決する。その一方、イヴ、ナタリー、ミレーユら若者たちが出会って、心を通わせていく様子が丁寧に描かれる。イヴに想いを寄せるナタリーにとって、ミレーユは邪魔な恋敵であるに違いない。実際に「あんたのこと邪魔よ」というセリフもある。それでも「放っておけない」と言い、世間知らずの貴族のお嬢様を自分のアパートに招き、画廊の手伝いをさせ始める。
宝飾品盗難の犯人は実はミレーユの両親で、そのことが明るみに出てしまったのは、ミレーユが家出資金にと自宅から持ち出した宝飾品がその証拠となってしまったからだった。落胆し、反省する両親を放っておけないので家に帰ると申し出るミレーユに、ナタリーは「あんたのような世間知らずのお嬢様に何ができるの?」「できることとできないこと、ちゃんと考えなさい」とまくし立てる。
長々とストーリーを説明してしまったが、重要なのは、結末だ。
結局ミレーユが自宅に戻ったのか、そのままナタリーと画廊を続けるのか明記されない。さらに、2人の女性に想いを寄せられるイヴがどちらかと結ばれることもない。イヴはこの街を離れる決意をしているようで、ナタリーとは少々別れの言葉を交わすシーンがあったが、ミレーユの方と決定的な会話は交わされない。
ただ、デビュタントボールでイヴにされるがまま硬直して、作法のレッスンの成果すら披露できなかったミレーユが、ラストシーンのイヴの友人の結婚パーティで、イヴの手を引っ張って踊りに誘う情景が一瞬描かれる。
この『デビュタント』という作品の中で「解決」した問題は“宝飾品の盗難事件“という、貴族の面子や欲に満ちた問題だけで、イヴら若者の人生を転換するアクションラインにはなり得なかった。一見、ミレーユがこの事件によって殻を破ったかに見えるが、ミレーユ自身が家出をしてきたのは“盗難事件“とは無関係であって、このアクションラインと関係なく彼女自身が「変わりたい」と思った結果、ほんの2、3歩前に進んだというだけの話。
大人の権力や思惑や見栄や体裁と、若者の「前に進みたい」という思いはまったく無縁であるということを表現していると思った。
主人公のイヴは、事件を解決したからといって名声や富を得るわけでもない。恋を成就させることもない。ただ、貴族の次男として意思なく生きてきた自分を見直し、おそらくだが自らの生まれに課せられた義務(ノブレスオブリージュ)を思い直して、仲間に囲まれた居心地の良く幼い場所から旅に出ようとするシーンで幕が下りる。
彼の心のありようは大きく変化するが、彼の人生においては、数歩踏み出しただけ――。
この、物語の起承転結における“起“と“結“で、ほんの小さな前進しかしないところが、そもそも正塚作品の真骨頂だと気付いたのだった。

 


ちなみに、風来坊の貴族の次男を演じていた瀬央ゆりあさんは、入団同期が数多くのトップスターを輩出する「スターの期」に属している。同じ星組にも現・星組トップスターの礼真琴さんがいて、当時から彼女の抜擢よりも遅れる形で新人公演やバウホールでの主演を任されていた。
そんな彼女が、宝塚の機関誌や新聞などのインタビューで幾度となく紹介してきた、正塚さんの金言がある。音楽学校時代に演劇の授業で正塚さんが講師を務めていたのだそうだ。
「腐るなよ、腐ったら終わりだからな。絶対に腐るなよ」
演劇の授業で聞いたのならば、他の同期も聞いているはずだが、このエピソードは彼女からしか聞いたことがない。つまり、彼女は腐りかけたことがあったからこそ、この言葉を強烈に覚えているのだなと思うわけだ。
私が『La Esperanza』に強烈に救われたのと同じだと思った。
劇中は風来坊の次男の気だるい魅力もしっかりと表現しつつ、ラストシーンでは、大きな目がキラキラと反射するほど目を潤ませながら自立して生きていくことを誓う歌を絶唱する。正塚さんの描くイヴとイヴが放つリアルなセリフを通して、瀬央さん本人も、単なる若手男役としてではなく、1人のスターとして生きていくことを決意するようなラストシーンだった。

彼女は今、同期のトップスター礼さんの下で、3番手スターとして着実に実績を残している。彼女が“腐らずに“今舞台に立ち続けられるのは、学校での正塚さんの言葉に加えて、あの3時間のリアルな心の動きの追体験が支えているように感じてならない。

私たちが物語を観ている時間はたった3時間。演じている彼らの時間軸は数日〜数カ月経っているのは当然だが、数日〜数カ月だったとして、人間の心ってそんなに簡単に変わらないものだ。正塚さんの作品は、そんな人間の「変われなさ」に寛容だと思う。どんなにいろんなことがあっても、めちゃくちゃ苦労して振り回されても、それでやっと「よっこいしょ」と腰を上げて前に進んでいく登場人物たち。それを観て、どんな御涙頂戴の作品より、勧善懲悪のスカッとする作品より、「私も立ち上がるか」という気にさせてくれる。観客も、出演者も。
ハードボイルドの作風でも、セリフの自然さでもない。
正塚リアリズムとは、変われない心を待っていてくれる広い背中だと思うのである。

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