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宝塚
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大野拓史 タイムスクープハンター

2021.08.06

NHK総合で放送されていた『タイムスクープハンター』という番組をご存知だろうか。
2009〜2015年に数シーズンにわたり放送されたこの番組は、タイムワープ技術を駆使して過去のあらゆる時代に“時空ジャーナリスト“を派遣し、歴史の教科書に載らないような人々の暮らしやありようを映像記録する「タイムスクープ社」が記録したドキュメンタリー映像というていで構成されるエンターテインメント性も兼ね備えた歴史教養番組だった。
「歴史の教科書に載らないような」事象を取り扱うだけあって、その“取材対象“は多岐にわたる。寺子屋の受験戦争、出産の現場、寄合の談合、辻斬りの殺し屋など、時空ジャーナリストの沢嶋(演:要潤氏)が体当たり取材を敢行。時に、現代に戻れるか⁉︎といったハラハラさせられるようなアクションラインもこなしながら、史実考証に基づいた歴史ドラマを展開し、歴史のスポットの外の風俗を鮮やかに描いた番組だった。

前回の生田大和さんの人物描写への「高精細」とはまた違った角度の鮮やかさをもって物語を紡ぐ人。今回紹介する大野拓史さんは、一言でいうと【タイムスクープハンター】である。

大野さんは1996年に宝塚歌劇団入団。1999年に、シェイクスピア後期の作品『十二夜』を日本を舞台に翻案した『エピファニー』(1999年星組宝塚バウホール公演/主演 彩輝直)で演出家デビューを果たす。その後、宝塚大劇場デビューまでの作品も『月の燈影』(2002年花組宝塚バウホール公演/主演 彩吹真央・蘭寿とむ)、『花のいそぎ』(2004年星組宝塚バウホール公演/主演 真飛聖)と、日本を舞台にした作品が続く。そして、宝塚大劇場デビュー公演も『夢の浮橋』(2008年月組宝塚大劇場公演/主演 瀬奈じゅん・霧矢大夢)と、和物であった。これは、世界最古の長編小説といわれ、そのタイトルくらいは知らない人はいないであろう紫式部の『源氏物語』の最後の十帖、通称「宇治十帖」を題材にした作品。少女向けのロマン歌劇を得意とする宝塚歌劇において、『源氏物語』の麗しの皇子・光源氏はもってこいの題材であり幾度となく上演されているが、この光源氏の死後を描いた「宇治十帖」を題材にしたのは、1973年の『浮舟と薫の君』(酒井澄夫作・星組宝塚大劇場公演/主演 安奈淳・但馬久美・衣通月子)以来、35年ぶりのことだった。
この『夢の浮橋』は、私がその主人公・匂宮(今上帝の第3皇子・光源氏の孫にあたる)を演じた瀬奈じゅんさんのファンだったために大変思い入れの深い作品だが、その辺の話を始めると本が1冊書けてしまうし、何より当連載当初の目的「宝塚というニッチな世界の重くて厚い扉を開いてみせる」というビジョンに反するので割愛したい。
だが、今回紹介する彼の作風が、当時1人のタカラジェンヌ(出演者)のファンに過ぎなかった私を物語世界の楽しさに引っ張り込んだと言っても過言ではない。

 

この連載第二回に、宝塚ファンはその受容の作法に応じて幾つかに分類されるといった。ただただ贔屓の出演者が見られれば良いという「タニマチ−パトロン型」。一方で、物語世界を味わいたい「映画=小説型」。そのとき私は自分のことを後者だと分析したが、何も初めから物語世界だけに惹かれた文学少女だったわけではない。最初は誰でも、見目麗しく夢のような存在の出演者のファンというミーハー心からこの世界に入るもので、私ももちろんその例に漏れない。
だが、あるとき「映画=小説型」の方か、はたまた「バレエ=オペラ型」の方か、どちらかに引っ張り込まれる瞬間があるのだと思う。
つまり、かどわかされるように“物語の世界“に引っ張り込まれたのが、先に紹介した『夢の浮橋』だった。当時は出演者への熱狂でポーッとしてしまっていたけれど、今改めてその強い引力の正体を解き明かしていきたいと思うのだ。

 

大野さんとの出会いは、彼が演出のみを手がけた作品だった。『飛鳥夕映え』(2004年月組宝塚大劇場公演/主演 彩輝直・映美くらら)で、脚本は第2回で紹介した重鎮・柴田侑宏であった。柴田氏はある時から目を患い、脚本のみを手がけて演出は後進に譲ることが多くなった。そのうちの1作である。
その中で、柴田さんが書いた脚本と、それを舞台上に起こす大野さんの表現、双方があまりにも印象に残っているシーンがある。
この『飛鳥夕映え』の主人公は蘇我入鹿である。小中学校の授業で習う彼のイメージは「大化の改新で討たれた豪族」といったところか。権力をほしいままにしていた蘇我家の振る舞いに危機を感じた天智天皇と中臣鎌足に討たれ、豪族を成敗することで天皇中心の統治に一歩近づくというプロットを教えられるだろう。
主人公が入鹿ということは、ヒロインはその妻・瑪瑙であった。瑪瑙は自宅で“大化の改新“によって、伴侶が殺されたことを耳にし、その瞬間失神するでも泣き崩れるでもなくこう叫ぶ。

「瑪瑙 父上… 駒を拝借!!」

駒というのは馬のことだ。夫を殺されたこのみずみずしい女は、馬に鞭打ち、夫が殺害された現場・大極殿に駆けつけようというのであった。ここからの瑪瑙役のヒロイン・映美くららさんの動きが鮮やかで目が離せないものだったのだ。
まず、父親に上記のように言い放ち、猛ダッシュで袖にはけていく。そして、場面は転換し、入鹿が事切れしめやかに葬儀が行われたというナレーションが。この後の演出が見事で、何もセットのない舞台上を、真っ黒な衣装に身を包んだ葬列が端から端に横切っていく。その中1人ピンスポットを浴びた瑪瑙は放心状態で、しかし凛と姿勢良く、足取りも確かに舞台上を斜めに横切っていくのだ。
瑪瑙は最後の瞬間まで、入鹿・時の最高権力者の妻だったのだなと思わされる演出だった。
こういうバイヤスに満ちた物言いは今好まれないかもしれないが10年以上前のことなので容赦願うと、ふつう、男が「配偶者が死んだ女」を描こうとするとき、こういう描写をするだろうかという視点で印象に残ったのだ。
柴田さんの脚本がそもそもそういう点で斬新だったし、私はこの時
「それにしたって大野さん、まるでその場にいたような演出をするな」
と思った。葬儀に参列でもしたのかと、ゾッとさせられたからである。
そんなわけで、私は彼のことをずっと“タイムスクープハンター“、時空ジャーナリストだと思っている。

 

彼の「タイムスクープハンター」ぶりは、何もゾッとさせられるものばかりではない。
リアルにときめきを与えてくれる方にその才が発揮されることも多く、非常にエンターテインメント性の高い作品もある。その中で特に好きなのは『一夢庵風流記 前田慶次』(2014年雪組宝塚大劇場公演/主演 壮一帆・愛加あゆ)である。
タイトルでわかるように、こちらは隆慶一郎氏の『一夢庵風流記』が原作となる翻案ものである。前田利益、通称前田慶次は史料が極めて少ない男だそうで、この『一夢庵風流記』や、それを原作とした原哲夫氏の漫画『花の慶次』などに彩られたイメージが史実に先行して一般に定着しているのだという。
そんなわけで、個人的には私も「前田慶次といえば花の慶次」から入ったのだが、これがいい具合にイメージを覆し、それ以上のときめきを与えられることとなった。
『花の慶次』の慶次は身長2m近い屈強な大男だ。人望の厚い武人でありつつ、当時の常識や慣習に囚われない自由な思想をもつ傾奇者(かぶきもの)である。
一方、当作で前田慶次を演じた壮一帆さんは……。身長170cm。男役の中においては平均的だが、ほっそりとした顔立ちに長い首、華奢な肢体が相まって、それよりも小柄に見える。だが、それが引き立てる大きな瞳が印象的な美丈夫で、小柄ながらおおらかな芝居に魅力がある人だった。
この連載ではこれまで、筆舌を尽くして、努めて論理的に魅力を語っていたので、なんと語っていいか頭を悩ませたのだが……。

壮一帆さんの前田慶次を見た時、直感で「こっちじゃん」と思ったのだ。

これは、原さんの描く慶次像を否定するものではないことを最初に申し述べておきたい。宝塚上演の大野さん版の『一夢庵風流記 前田慶次』は、宝塚が男役・娘役のカップルによる異性愛を主題とせねばならないという制約のせいもあって、慶次の叔父・前田利家の妻であるまつとの恋愛模様(史実で淡白にいうと情交)が大きな比重を占めている。
一族内の不義なので、今風にいうとドロドロの修羅場だし、控えめにいって「文春案件」である。
現実で世論は不倫に厳しい昨今だけれど、物語世界の不義・不倫の恋をロマンスに昇華するとなると何が求められるのか……
「いやーしょうがないよね、かっこいいもんね(いい女だもんね)」
と読み手が納得するだけの当事者たちの魅力に他ならない。
そういう視点、つまり「異性愛の対象として見たときの慶次」としてどっちが魅力的かといわれたら、圧倒的に大野さんが描く壮一帆さん版の【ひょろっと一見か弱いけれども大胆で勇敢でおおらかな傾奇者】に軍配が上がってしまったのだった。壮さんの慶次は、よく笑いよく拗ね、窮地に物おじしない軽やかないい男、つまり“リア恋枠“だった。
もちろん、巨匠・原さんの描く慶次像が少年漫画の大正解であることにはなんの異議もない。実際、幼少からのジャンプっ子だった七島にとっては『花の慶次』は胸たぎる大好きな作品の1つである。ただ、男子にとっての「いい男」と女子にとってのそれは全く違うということ。そして、なぜかその「いい男・前田慶次」を、女子目線男子目線取り混ぜて描けている大野拓史という男……。
あんたさぁ、前田慶次に会ったことあるのでは?正直に言いなよ?と、思ってしまうのである。

 


大野さんの「時空ジャーナリスト力」を、マスコミ勤務として本気でほしいと思った作品がある。
それは『阿弖流為―ATERUI―』(2017年星組梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ公演/主演 礼真琴・有沙瞳)だ。
これも原作もので、高橋克彦氏の小説『火怨 北の耀星アテルイ』を下敷きにした歴史絵巻である。アテルイとは奈良時代の末期に活躍した実在の人物で、当時本州東北部に居住し、朝廷の統治・同化に拒否を続けた集団を率いた族長である。ここはとても大事なことなのだが、民族やアイデンティティが“和人“たちと違ったとは考えられておらず、この地域を征服したい朝廷側が彼らを「えみし」と他称した。
つまり、本来ない分断を、支配したい側が勝手に生み出したのだ。
まずその点を、私は今現代から見て許しがたいと怒りに震える。

当作は、この阿弖流為(アテルイ)が故郷を守るために立ち上がり、止まらぬ朝廷の侵略に立ち向かいつつ、朝廷側の敵将・坂上田村麻呂との心の通い合いや、朝廷の侵略で配偶者を亡くした未亡人、そして盟友の妹である佳奈とのロマンスを丁寧に描いた作品である。
こうやってテーマを書いただけでも見る価値を感じてもらえると思えるほどの大作なのだが、ここでもやはり大野さんの「タイムスクープ力」が光る。
いちいちゾッとするほどの鮮明な描写なのだ。

一番ゾッとしたのは、えみしの者にあって朝廷に仕えながら、朝廷の高官を殺し捕らえられた伊治公鮮麻呂の最期。彼は京の祭りの最中、朝廷の高官に「見せ物」として檻に入れられたまま引き出され侮辱を受け、その名誉を守ろうとしたえみしの仲間たちを守るため舌を噛んで絶命するのだが……。
その壮絶な最期を演じた鮮麻呂役の壱城あずささんの演技も直視できないほどの鬼気迫るものであったが、その後の一言。発言者(朝廷長官・紀古佐美)は舞台上におらず、影アナだけで声が響く。

「もうよい 疾く首を刎ねよ」

特に抑揚のないめんどくさそうな物言いが聞こえた刹那、舞台上の照明が一瞬赤く光ったのち暗転する。
あの一言があるおかげで、鮮麻呂の死が“台無し“になる。時代劇でよくあるところの、御涙頂戴的な“美しい死“には到底ならないのだ。死してなお侮辱される鮮麻呂と、それを目の当たりにしたえみしたち……
その数場後、介錯された鮮麻呂の首はさらし首にされ、その首を警護するはずのもりびとに「鬼は外」と石を投げつけられる描写まである。

あのくだりを直視できた観客はどれだけいるだろうか。いくら「タニマチ=パトロン型」の観客といえど、オペラグラスを下ろしたくなってしまったのではないかと思う。
私はいまだにあの一連のシーンを見るたびに震えるし、それでも自分の始祖たちが犯した大罪から目をそらすわけにはいかないと、必死に顔を上げるのである。

自分たちの都合で分断を生んで、その分断を理由に人を辱め殺す。
奈良時代から人は、1000年以上変われないものか。

重箱のすみをつつくようなことだけど、大野先生が「時空ジャーナリスト」だと思うのにはもう1つ象徴的なシーンがある。それは、主人公の阿弖流為とその盟友・母礼が処刑されるシーンが描かれていないことだ。
最後の夜に酒を酌み交わす阿弖流為と母礼。力が及ばず2人の志を助けられなかった田村麻呂が見舞い、その静かな語らいのシーンののちに他の人の言葉で2人が処刑されたことを告げられる。
大野さんが鮮麻呂が侮辱され死んでいくシーンをしつこく描き、2人が死ぬシーンを描かなかった対比は、後者が死の尊厳を守られたことの象徴だと読んでいる。大野さんの目線はきっと都の大衆で、2人の死は大衆の目に触れず丁重に執行された、と。

傾奇者に恋する女の目線から、権力の不条理を傍観する大衆の目線まで。
手を替え品を替え、姿を変え、さまざまに歴史のディテールを映し出す時空ジャーナリスト。
大野さんに強く手を引かれ、私も一緒にタイムワープをしているような気分で……。今日もあの大きな歴史絵巻の幕が上がるのを、今か今かと待ち侘びているのだ。

歴史は現代の問題の薬箱であり、芝居や演芸はその薬の使い所を知る一番の処方箋である。
それが、そのことが不都合なのか知らないが――、一定の愚か者たちの手によって潰されないために。大野さんほどの力はないにしても、だから私は書き続ける。 

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