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哲学
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存在のゆるし

2020.12.04

コンビニから出ると、大雨だった。

 ひとびとは当たり前のように傘をさして歩いている。手ぶらのわたしはそのまま進み、横断歩道で信号を待つ。ゴワゴワした服に水分が滴り落ちて気持ちが悪い。靴もじゅくじゅくして寒くなってくる。ひとびとが、町の中でたった一人、傘をさしていないわたしを見つめているのがわかる。

 歩いていた道を引き返し、100円ショップにいそいそと入る。風が吹けばこわれるような傘を買い、ふたたび外に出る。ひとびとは「傘を忘れたのでいま買った人」という目でわたしを見ている。

 傘をさして歩くと、ぱたぱたとビニールに水が当たる音がする。やわらかく小さな傘からしずくがたくさん滴り、わたしの靴をさらに濡らす。

 

 本当は、傘は必要なかった。わたしは濡れてもよかった。「雨の中で傘をさしている人」になるために、この町で居場所を得るために、わたしは傘を買ったのだった。

 



 存在することは、やるせない。存在は白々しい。わたしたちは「ただ存在すること」が苦手だ。

 大学院生のとき、友だちの展示を見に日本橋を歩いた。足早にすれ違うひとはみんな、何か役割を持っているような気がして、ひどく心細かった。みんなが立派に見える。意義を持った、一人前の大人に見える。ピカピカの靴、新しいスーツ。全員年収1億くらいありそう。

 10年以上前に見た番組で、オードリーの若林正恭さんが「楽屋でペットボトルのラベルを読み込んでいる」という話をしていた。ただ座っているのはつらい、だけどドリンクのラベルを見ていれば「ラベルを見てるヤツになれる」と。 

 「なれる」という言い方が記憶に残る。ただ存在していることは、いたたまれない。だから、わたしたちは何か役割を得たいと思う。それは、アイデアを出す人だったり、議論を記録する人だったり、荷物を運ぶ人だったりする。もしくは、傘をさしている人だったり、ラベルを熱心に読んでいる人だったり、スマホをいじっている人だったりする。

 反対に、役割を持っていないひとをわたしたちは軽視する。まなざしの圧力でその人を押しつぶそうとする。まなざしは、存在を小さくすることができる。役割を持て、役に立て、と叱りつけることができる。

 だがその声は、呪いである。そして、呪いの杖はつねに壊れている。呪文をとなえて繰り出される魔法は、あたり一面に撒き散って、わたしにも突き刺さるだろう。呪いはあっという間に血管をかけめぐり、わたしを殺すだろう。いつまでも、いつまでも、呪いを撒き散らしながら。




 少し前から「ただ存在する」運動をはじめた。駅につくまでの電車の中で、ただ存在する人になる。町の中で、植え込みに座って、何もしない人になる。

 「話しかけられるのを待っているひと」になってはいけない。「待ち合わせをしているひと」にも「ぼーっとしているひと」「疲れたから休んでいるひと」にもなってはならない。そうではなく、わたしはただ、存在するひとになりたい。

 ひとと目が合う。ひとは少しだけぎょっとした顔をする。スマホもいじらず、ぼーっとしているわけでもなく、ただ植え込みに座っているひとというのは、奇妙だ。「なる」に飛びつかずに、存在そのものにしがみついていることは難しい。存在の不安に押しつぶされそうになりながら、わたしは「存在」をやってみる。


 大雨の中、傘をさしているひとにならなくてもいいことを、自分にゆるそう。目の前のペットボトルを読み込まなくてもいいように。エレベーターの中で、ゆっくりと点滅する階数を見上げなくてもいいように。役割を得ることだけが価値にならないように。

これはひとつの、わたしのささやかな社会運動であり、抵抗運動である。

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