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哲学
25

悲劇

2020.03.17

「悲劇」について、哲学対話をしたことがある。

哲学対話とは、気になっているけどそのままになっていることや、わかったつもりになっていることについて、立ち止まって考え直してみるということを、ひとと一緒に行う時間である。

まちでやる哲学対話のイベントは「哲学カフェ」という名前で呼ばれ、喫茶店などで、様々な団体によって活発に行われている。

 

ほぼ初対面のひとと「悲劇」について考えていると、誰かが悲劇を「自分の力ではままならない状態のこと」と定義してくれた。たしかに悲劇っぽい。本で読んだり演劇で見たりする悲劇は、神や運命を呪っている。わたしの手ではもうコントロールできないからだ。

世界は堅牢だから、ちょっとやそっとでは壊れない。だから、悲劇といえば、何か衝撃的で劇的なことが起こる。剣を刺した憎き敵が実の父親だった!とか、戦をしていてあともう少しで勝利というところで、幼い子どもが犠牲になった!とか。

悲劇は少しずつ忍び寄る。だんだんと不穏になり、そしてついに運命が暴走し始め、ブレーキが効かなくなる。主人公はもがいて、何とか運命に抗おうとする。だがそれは無益な試みだ。

 

そんなことを、みんなで考える。

 

終了の時間になってファシリテーターが立ち上がり、ホワイトボードを消しながら、悲劇についてこんな話ができましたね、などと簡単に振り返りをする。2時間ほどかけて考え疲れた頭をぼうっとさせていると、ファシリテーターがぼそっと言った。

 

 

 「まあでも人生も、そもそもままならないですよね」

 

 

 

 

 

世界がまだわたしにやさしくて「ままならない」なんて言葉も知らなかった小学4年生の時の、ある朝のことを書きたい。

朝は豊かでうつくしく、ぱちりと目が覚める。帽子をかぶって、羽根のように軽い身体で学校へ駆けていく。学校以外にわたしの世界はなく、ほかのすべては淡くぼやけている。

教室に着くと友だちが何人かすでに来ていて、楽しそうにおしゃべりをしている。わたしもすぐに、黒板の横でふざけているサキちゃんとナッちゃんの輪に参加する。あの頃は「お疲れさまです」も「今日寒いね」もない世界で、どうやって友だちの会話に参加していたのだろう。

わたしたちはぴょんぴょんと跳ねている。両手を上に挙げて、うさぎのように。何が面白いかわからないのに、わたしたちは心底楽しくて笑う。空気は透き通り、朝の日差しがうれしい。

サキちゃんがぴょん、と跳ねたときにきらりと光ったものが目に入った。飛び上がった拍子に、下着のシャツと、吊り下げているスカートの間に、ロケットペンダントのようなものを見つけたのだ。小学校は、勉強に関係のないものは持ってきちゃだめなルールだったから「あ!」とわたしは言った。糾弾するというよりは、ひみつの道具を発見した気持ちだった。

ナッちゃんもわあっと声を上げ、「なにそれ?」と聞く。見せてもらうと、かわいいコーギー犬が4匹写っていた。大きいコーギー、そして子犬のコーギー。親子なのだろう。サキちゃんがコーギーを何匹も飼っているのは小学校で有名だったから、わたしたちは写真を見ることができたことを喜んで、サキちゃんのスカートに付いている小さなロケットペンダントをのぞきこんだ。

わたしは顔を上げ「かわいいねえ」とはしゃいで言った。
するとサキちゃんは静かに言った。


 「実は朝、死んじゃったの」


え、とわたしは声を小さく吐き出した。

 

 

あまりのショックに、その後どうしたのか覚えていない。

ただ、がしゃん、となにかが壊れた音がしたのを覚えている。わたしの言葉が細かなガラスの破片になって、彼女に突き刺さる。わたしにもたくさん、たくさん、突き刺さる。

 

サキちゃんは、大きな声を上げて泣いた。

 

 

 

 

 

不意にひとを傷つけるということ、傷つけられるということ。傷つけて、傷つくということ。ふとした瞬間に、ひとも壊れてしまうということ。まばゆく確かな朝が、壊れてしまうということ。世界は、簡単に壊れてしまう可能性があるということ。

「かわいいね」は別に意地悪な言葉じゃない。たまたまわたしが言って、たまたまロケットペンダントが朝の日差しに反射してきらめいて、たまたまサキちゃんが跳びはねて、たまたまその朝、サキちゃんの犬が死んだ。

唖然とする偶然性に、わたしは恐れおののく。わたしたちは世界をコントロールすることができない。自分の人生を適切に取り扱うことができない。確実で頑丈にみえる世界は、おどろくほど脆いもので支えられている。ぞっとするような脆い偶然性の重なりを、ひとは「運命」と呼ぶのかもしれない。運命の動因は、神でも大いなるなにかでもなく、このわたしだ。わたしのたった一言、「かわいいね」なのだ。

 

人生はままならない。
それなら、人生は悲劇なのだろうか。

 

あれから数十年経った。サキちゃんは獣医になったらしい。
まちで犬を見かけると、かしこまった家族のように座ったコーギーが、目の前に蘇って離れない。

 

 

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