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哲学
8

目撃

2019.08.30

わたしたちの社会には哲学が足りない、と嘆くひとがいる。

たしかにわたしたちは、せかせかと目の前の仕事をこなしているばかりで、自分自身は何者か、自己とは何か、なぜ生きるのか、立ち止まって根本的に考えることがない。「汝自身を知れ」と紀元前を生きる古代ギリシャの哲学者たちは言ったが、どちらかと言うとわたしが今知りたいのは、洗濯物の生乾き対策や、節税の方法、楽天ポイントの効率的な貯め方である。

日常に刺激が足りない、と憂うひとがいる。

平坦で変化がなく、ただ今までのことを積み重ねるだけの日々は退屈かもしれない。それだからひとは、ジェットコースターに乗ったり、フェスに行ったり、ぞくぞくするような体験を追い求める。スリルを味わいたくて、犯罪に手を染めるひとすらいる。

哲学も刺激も、日常や社会生活とは無縁なもののように思える。だが、わたしはあえて言いたい。哲学的で、刺激的な空間は、実は日常の中にこそある。あふれかえっていると言ってもいい。その中のひとつに、「美容院」がある。

まず「どうしたいですか?」という問いが哲学的である。

入店すると、不思議な体勢で髪を洗われ、かゆいところは、洗い足りないところは、など質問され、終わったら頭以外を覆うカバーをかぶり、でかい鏡の前に座らされる。おしゃれな美容師さんがやってきて、にっこりと微笑み、わたしに「どうしたいですか?」と優しく聞いてくれる。鏡にうつる腑抜けた自分の顔を見つめながら、わたしは考える。わたしはどうしたいんだろう、どうするべきなんだろう、わたしって何なんだろう。

「どうしたいですか?」という問いは、「どういうあなたでありたいですか?」という問いでもあり、「どういう人生をあなたは送りますか?」という問いでもある。問いはどんどん広がっていき、美容師さんの何気ない質問が「何のために生きるのか?」という根本的な問いにつながっていってしまう。

フリーズしているわたしの隣で、別のお客さんがハキハキと要望を伝えている。「汝自身を知」っている、もしくは知ろうとしているひとなのだ。「友だちにもこうしたらいいよって言われてて」という言葉も聞こえてくる。しっかりと他者にヒアリングもしている。えらいなあ。隣の美容師さんは、ふむふむと聞いたあと「この髪質だとこうするのもオススメですよ」などとお客さんと対話を始めた。二人は対話を繰り返し、考えや主張を洗練させ、真理に向かって探求を始めている。美容師さんはわたしのあり方を共に考えてくれる探究者なのだ。哲学だ。哲学が起きている。

美容院はスリリングでもある。

相手が刃物を持っている。この時点で、かなり刺激的であることが分かるだろう。さらに、美容院で面白いのは、わたしと、鏡にうつる美容師さんと、鏡にうつるわたし、三人で対話が行われることだ。自分の顔を眺めながら、他者と対話を小一時間続けるという経験は、日常の光景にはありえない。しかもわたしは、なぜかてるてる坊主のようなカバーを身に纏い、身動きせず着席している。どんなに冷酷で、サディスティックで、残忍な悪人でも、髪を切るときはわたしと同じようにおとなしく、ちょこんと座るのだろう。赤子のように、温かいお湯でやさしくシャンプーを流してもらうのだろう。

刺激とは、日常の経験から距離があればあるほど生じるものだ。そうなると、美容院という空間はかなりの非日常である。自分自身の顔を鏡で見続けること。小一時間、身動きせずに他者と対話すること。他者に髪を洗ってもらうこと。どうしたいですか?と聞かれること。哲学せざるを得ないこと。


美容師さんがわたしの髪を切る。ぽとぽとと、わたしだったものが落ちていく。不思議な光景だ。わたしが変わっていく。それをわたしは静かに目撃しつづける。


ある日、美容師さんにシャンプーをしてもらっているときに「何をされているんですか」と聞かれた。「哲学です」と答えると、彼女は「えっ」と静かにつぶやく。「それじゃあ」彼女は手を止めて言う。「心が読めるんですか」。それはメンタリズムでは、と言いたくなるが、非日常的な体勢のためうまく言うことができない。たしかに「哲学」の認知度は低い。わたしの説明不足だ。だが、顔に乗せられたガーゼがかゆくて説明できない。その間に彼女はわたしに心を読まれまいと急に無口になってしまった。違う。心は読めない。誤解です。

ふと、もしかしたら、と思う。どんな髪型にするのか決めかねてもたつくわたしに、ゆったりと微笑む美容師さんの顔を思い出す。刺激的な非日常を体験しているわたしと、その体験の提供を日常的にこなす美容師さん。でも、美容師さんにとっても、お客さんとの出会いは、実はかなりスリリングなものなのかもしれない。

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