hair.jp

Instagram Twitter facebook
つぎのわたしを探す

SPECIAL CONTENTSスペシャルコンテンツ

コラム > 手のひらサイズの哲学 > わたしとあなたと誰かの叫び声
哲学
19

わたしとあなたと誰かの叫び声

2019.04.11

 時計がこわい。
みんなは、あんなおそろしいものをよく腕に巻き付けていられるな、と思う。

中学に入って腕時計をつけることが学校で推奨されたけど、わたしは秒針がカチリカチリと動くことがこわかった。自分のあずかり知らぬところで未来が押し寄せるということが、訳が分からなすぎておそろしかったのだ。

テレビをリアルタイムで見るよりも、録画で見る方が好きだ。
ぴるぴるぴるぴるぴると番組を戻していると、わたしは時間の不可逆性を乗り越えた気分になる。人々が奇妙なダンスを踊るように身体をくねらせて、時間が巻き戻っていく。

「時間論」は、哲学の一大ジャンルだ。
時間とは何か、客観的な時間とは存在するのか、過去とは何か。
たくさんの哲学者たちが、様々な議論を展開させている。

だが、「時間が流れる」ということについて考えようとすると、小学生のころ少しだけプレイしたテレビゲームを思い出して、その途方も無さにぼうっとする。

ゲームでは、わたしがコントローラーを操作して主人公を動かし、アイテムをゲットさせたり、ジャンプをさせたりする。彼はわたしの言うことを聞いてくれる。右に左にと自由自在に主人公は動き回り、冒険は続いていく。しかし、いくつかステージをクリアし、次のステージに画面が切り替わったとき、事態は一変した。

主人公がいきなり、猛スピードのトロッコに乗っているのだ。
急いでジャンプボタンや、戻るボタンをガチャガチャと連打する。だが、主人公はトロッコに乗ったままだ。トロッコは前方に、おそろしいスピードで進んでいく。
わたしに許されているのは、障害物を避けたりするための方向ボタンの操作だけ。

未来がなだれ込んでくる、という状態をはじめて目に見える形でわたしは理解した。
過去には、決して戻ることができないという、そのことも。
主人公はそのまま舵を取りきれずに、引きちぎれた線路に進んで、火の海に沈んでいく。

握りしめていたコントローラーは、汗でびっしょりと濡れていた。

 

もう一つ、思い出すことがある。

高校二年生の、ある日のある授業中、先生がふと「来年の今頃はセンター試験ですね」と言った。先生はおそらく「そんなこと分かってるよ」というけだるい空気が流れることを予想しただろう。だが、数秒の沈黙のあと、教室から切り裂かれるような叫び声があがった。

 おぎゃああ、おわあああ、いやだあ! 授業なんかしない!! 授業はしない!!

美人のカヨコちゃんだ。机にしがみついて、足をじたばたさせている。
先生やクラスメイトは、高校生と思えない稚拙さと狂乱に、目を丸くして驚いている。

だがわたしは、真っ当な反応だ、と思った。

カヨコちゃんは、来たるべき未知を前にして恐れおののき、とりあえず「今」を消費することに決めたのだ。だからこそ「しない」のは「受験」なんて漠然とした未来じゃなくて、「授業」という「今」である。「現在」をもてあそんでぼろぼろにすり切れさせれば、その分未来はぼやけて見えにくくなる。擦り切れた「現在」に留まり続ければ、わたしたちは永遠に不老不死のままだ。シテイコウスイセンも、エーオーニュウシも、イッパンニュウシコウキニッテイもわたしたちを侵すことはできない。

騒ぐカヨコちゃんを尻目に、何人かは単語帳をひらいて、自分の未来のために個人勉強を始める。
単語帳には、色とりどりの付箋が貼られていて、きらきらと西日を反射させている。
彼女たちは決して、「今」にたくさんの折り線をつけて、丸めて、捨ててしまうようなことはしないのだ。

だが、わたしもまた、カヨコちゃんと一緒に心の中で声を張りあげる。

 おぎゃああ、おわあああ。

わたしたちは、トロッコに乗っているのだ。

それから紆余曲折あり、わたしはある大学の哲学科に入学した。
色んな授業を受けても「時間」とは何か、結局分からなかった。
いくら言葉を重ねても、その生々しい「時間」のふしぎは、汲み尽くされることはなかった。

その代わり、同じように何かにふるえている人を見つけることができた。
なんで世界は「ある」のか。
なんで気がついたら生きちゃってるのか。
なんで死んじゃうのか。

わたしたちは、カビ臭い研究室で、こわい、こわいと繰り返しながら大声で笑った。
みんなにもそれぞれ、こわいものがあったのだ。

そしてきっと、過去の哲学者たちも、世界の訳分からなさに思わず立ち止まり、呆然としたのだ。

 

哲学とは、深く何かを考えたり、論理的に思考を掘り下げたりする。
だが同時に、世界のふしぎにひたすらに身をふるわせ、唖然と立ち尽くすこともまた「哲学」であってほしいと思う。

時にわたしたちは、冷静に思考を掘り下げるだけじゃなく、世界の途方もないふしぎに、カヨコちゃんみたいに、ただただ、叫び声をあげてもいいはずだ。

そうしたら、誰かがあなたの隣に座って、一緒に叫び声をあげてくれるかもしれない。
何かが解決されはしないけど、世界のふしぎさとバカバカしさと崇高さとに、共に笑うことができる。こわい、こわいと、仕方なく笑うことができる。

だから誰か、一緒にトロッコに乗りましょう。

Share it ! LINE Facebook Twitter Mail

よく読まれている記事

SPECIAL CONTENTS

Page top